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定期的に自分が書き残してきたものを眺める。その中で1つ、何もかもが未熟だった私の全てがそこに残っていた。
5年半前のお気持ち。当時私はちょうど20歳だった。あの頃へのアンサーとして、あの頃恥ずかしくて書けなかったことも含めて、26歳になった私の「今」を返していきたい。
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このひと月で、三組のカップルと出会った。
付き合ってる期間も知り合い方もまるで違う3組なので、三組三葉の仲睦まじい姿があった。私がまだ誰とも築けていない、二人だけに許された距離感にただただ憧れた。
この3組のうち1組が誰のことを言っているのか記憶が曖昧なのだが、1組はこのあとすぐに結婚し(すでにしてたかな?)、もう1組は今も付き合っている。あれから5年半経っていてこれはとても素敵なことだ。羨ましい限り。
非リアをステータスとし、その自虐ネタで星が飛んでくることを良しとするTwitter人生だった。まるで、非リアであることに命をはっているのかと思われそうなくらいに。
今でも彼女が欲しいかと言われると怪しい。彼女なんてめんどくさいだけ、とはさすがに思わなくなったが、率先して作りたいと思っていないあたりは進歩がないなぁと情けなく思う。
当時は本当にそう思っていた。大学に入ってからもたくさんの女性に会ったけど、高校の頃、馬鹿みたいに、盲目に、今の彼女に対して抱いていたような恋慕の情が、どの女性にも全く湧かなかった。まあ今の彼女のことをずっとひきずっていたこともあるけど。
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よく彼氏/彼女がいる人とサシで話す。そういう機会が本当に多くて、その経験から私恋愛知ってますからと錯覚しているような男が私だ。本当はピーマンのように中身がない、申し訳程度の中綿があるだけだ。
私のことはさておき、そういった場でその人に彼氏/彼女とどうですかと聞くとどうにも愚痴ばかりなのである。延々と惚気を聞くよりは聞きがいがあるが、お独り様のピーマンとしては、今後に活かせそうな経験談として惚気も聞きたいんだけどなあと思うのである。
恋愛話における愚痴についてはかなり聞いてきた自負はある。はたしてそれを今に活かせているかはまだわからないけど。愚痴こそ活かせるはずと今は思う。彼女に愚痴られないような彼氏になりたいわね……
しかし三組のカップルをじっと見ていると、その一挙手一投足が私のずっと憧れ続けている「理想」であることに気付かされる。ずっと聞きたかった惚気は眼前で堂々と繰り広げられていた。
パーソナルスペースをものともしない自然体なボディタッチ、目と目で通じる何か、額が触れ合いそうな顔の距離感。こうも鮮やかに形づくられる「理想」を前に、昔なら心の奥でそっと中指を立てていただろうが、今はただ赤子のように親指くわえてないものねだりである。
惚気話をしないのは独り身への遠慮かと思っていたが、こうして視覚的に惚気を見せつけられると、幸せを語るのに言葉は無力だなと思い知らされる。
「幸せを語るのに言葉は無力」というのは、なるほどいいこと言うなあと過去の自分を褒めたくなる。視覚的表現の方がよっぽどわかりやすい、婚姻届に指輪を2つ並べたりね。
先日もそういったツイートを見たばかりで、素敵滅法、あるいは羨望といったばかり。何が言葉で惚気がどう、みたいなところは、常に思いあぐねるところ。
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映画好きの酔いどれのおっさんに「お前はスプラッタばっか観てないで恋愛モノも観ろ」と説教された。
それはその通りなのだが、これだけ素敵なノンフィクションを見ているのだから、恋愛映画を見る必要を感じなくなってしまう。
恋がしてえ。私もリアルなノンフィクションを演出してえ。そう思うほどに、このひと月はいい恋愛映画をたくさん見たような満腹感がある。もし彼女ができたら私はその幸せを言葉にできるだろうか。きっと私はオタクだから「優勝!」くらいしか言えないだろう。
5年半後に「優勝!」するとはつゆにも思わず、20歳の私の青臭い部分がこれでもかと出ている。こういう未熟な部分が言葉で残っていると、少しばかりは熟れたであろう自分を見つめ直すいい機会になる。
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あの頃「理想」を見せられて、うぎゃうぎゃいいながら羨んで、妬んだものが、今ようやく見せつける側の立場になれた。
赤レンガ倉庫でやってたオクトーバーフェストで彼女と優勝しました。 pic.twitter.com/dGSftj7NQd
— ぷるーぶ (@prooooove) 2022年10月10日
彼女と連れ立って会ったことのある人は今のところ6人。どうやら11月には高校のクラス同窓会があるようで、さあいよいよ、次は私が「理想」を見せつける番だといきりたっている。
そうして「理想」が連鎖していけばどれだけいいだろう。その一助を担うことができたらいいな。