ちょっと長めのツイート

お気持ちを配信しています

あの青春の味

 

◆オモコロチャンネル 2020年12月15日投稿動画 『問題に「味」でボケろ!味喜利!』より。

 大喜利のお題に「味」で答える企画で、原宿が出したお題がこちら。

 

高校の古文の授業中 先生にあてられた隣の席の女子

長谷部 ゆかりさん

ゆかりは授業を聞いておらず、当てられうろたえていたので

隣の席のあなたが「おい長谷部 47ページ」と小声で教えてあげた

その後の昼休みに長谷部が

「さっきありがと、助かったよ。おかず、なんか食べる?」

とお弁当を持ってきたのでその中からおかずを選んで

「こりゃラッキー! 情報量…っと」

 

その味とは?

 

ずっと何を言ってるの?

 

www.youtube.com

 

◆永田からは「長いし キモいし」、ARuFaからは「やりたかった青春じゃん」、恐山にいたっては「2000年のラノベ」とこき下ろされる始末。確かに長いしキモいし、やりたかった青春だし、2000年のラノベだ。

 ただこれは、アラサーのオタク男性なら必ず一度は夢見た原風景なんじゃないのかなと。情報量うんぬんはさておき、弁当を分け合うみたいな光景は、一度は思い浮かべたことじゃないのだろうか。私は人の弁当のご飯が食べられないクチですが……。

 こういう、経験はないのに浮かんでしまう風景というのは、どうしてこうも共通化・一般化されるんだろう。隣り合わせた机、思惑が巡る修学旅行、一緒に見上げた打ち上げ花火……。二十六歳になろうとしているのに、今もなお「憧れの青春」に思い焦がれてしまう。オタクというのは非常にいじらしいね。

 

◆自分の高校生活もまもなく十年前とかになるらしい。十年も経つと母校の後輩に皇族がやってきたりもする。十年一昔、怖い。

 ともあれ十年前を思い返すと結構毎日が楽しかったし、あの頃の友人たちとは今でも仲良くさせてもらっている。今の自分を見つめると「どうしてこうなっちゃったの?」と思っちゃうくらい、わりと青春をしていたはずだ。

 それでもないものねだりをし続ける。びっくりするほど退屈な今の生活を嘆いて、あの頃もっとあんなことができていればと。このお気持ちブログを始めてからしばらくはアクセス一位を誇っていた、あの記事のタイトルみたいなこととかさ。

 ねだり続けるくらいなら今の生活を変えようと努力すればいい、というのは嫌でもわかっているけれど、もうそんな気力もないし、もうそんな機会もない。そも、あの頃あんなことがしたかったは星の数ほど浮かんでくるのに、今こそあんなことがしたいみたいなことは、ほんの些末なつまらないことばかりしか浮かばない。無気力に、不格好に日々を消費し、貴重な週末は、私の描いた通りの展開で馬よ運んでくれと祈っているばかり。

 

◆思い、紡いで、実行するためのリソースもエネルギーも、ほとほと枯渇しはじめている。長谷部ゆかりが分けてくれたお弁当のおかず、それがどんな味だったのか、今の私にはてんで想像がつかない。

 味喜利というのは、共感覚の強さを図るものに近いと思う。文字や匂いに色を感じるように、美しき風景に覚えた舌触り、食感。五感の全てで「今」を享受していたあの頃ももはや遠く彼方。こんな体たらくを続けていれば、そりゃどう調理したって今は無味乾燥な日々。

 感覚器の全てが、体の節々よりもずっと早く老いはじめていく。そうこうしているうちに2022年もさっと終わって、出生一万日、果ては三十代へとあっという間に突入していく。こんな最後っ屁のような駄文を書き起こして入る暇があったら、どうだ、もっとやることがあるんじゃないのかい。

 

 

 とはいえ現状に不満があるわけでもない。それが最大の問題だとも思う。もういくつと寝ればまた歳を取ってしまうんだ。何をするべきかと無闇に焦るより、何がしたいのか、もっと考えていこう。味わったことのない「味」を求めて。