ちょっと長めのツイート

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大人になる自分に宛てて

 

 

    自分はまぎれもなくあの父の息子なのだと、もうじき20年目を迎えるこの人生で最近ようやく痛感している。

 

 

    父はとにかく動く。休日でも朝が早いし、少しでも暇な時間ができると外に出かけ、家ではPCでニュースを得てテレビ番組を見てあるいは本を読む。「止まれば死ぬ」という呪いに取り憑かれたように、父は秒単位でアクティブに生きている。

    対して19までの私は、何をしなくても常に課題が与えられそれに対してアクティブに取り組んできた。勉強部活人間関係、取組む課題は多様性に富んで尽きることはなかった。しかし言ってしまえば、与えられる課題を潰すだけの人生だった。

    それがこの1年、課題はそのほとんどが消費され、手元にはわずかに勉強が残った程度だ。今はといえば、努力義務に時間を食わせる日々だ。大学で勉強して、塾で物を教えて、課題を潰す週単位のルーチン。それらに対して、自分から取り組む姿勢を見いだせなかった。そして、夜になれば、努力義務さえも失い、かといって寝るに寝付けない、そんな地獄に溺れてしまう。

 

 

    私は間違いなくあの父の子だ。あの人は、手持ち無沙汰を恐れている。思考を、運動を少しでも停止することは、それすなわち死んだも同然だと、そんな本能が父を動かしている。そして今私も、手持ち無沙汰に心臓を掴まれて、今にも握りつぶされるんじゃないかと胸を苦しめながら、ただひたすらフリックを繰り返す。言い表しようのない恐怖に、あまりにも無力に、言葉で抗っている。

 

 

    もう2日と立たず、私は二十歳になる。いまだかつてこんなにも苦しい2日前があっただろうか。2日後の私は、これを見て何を思うのだろう。明るい未来が描けるだろうか。ティーンの頃のような取り組みたくなる課題を見つけるだろうか。それとも、心配しすぎの阿呆なだけだろうか。

 

    厨二病だと笑ってくれる大人の自分を、2日後に描けない。

 

 

※2016年8月4日のnoteに一部加筆修正