ちょっと長めのツイート

お気持ちを配信しています

必携の緊張

 

◆「これを恋と呼んでいたらキリがないな」と思うようになった。でもそれは、大人になった証ではないんだよな。

 

◆研究室の先輩の女性が、気さくな方で話していてとても楽しい。一つ上ながら私はタメ口混じりで話しかけているし、向こうもそれを気にせず応じてくる。何というか、母校の人と同じ匂いがする。

    飲み会で酔うと距離が近くなったりね、そういう人なんですよ。高校生の頃だったら間違いなく落ちてましたね、恋に。だって阿呆だったから。段違いの勘違いにドキドキしてたでしょう。

    (この人です)

 

◆小中高大と共学だったからか、異性と接することは何とかできる。それでもいまだに心のどこかでちょっと照れるというか。照れか?

    やっぱり異性は「異性」というだけで別の意識が湧くんですよ、性欲とも愛欲ともつかない緊張みたいなのが。その先輩に対してはこの緊張が露骨に顕著で、このもどかしさを、漫画だったら恋とか愛とかと呼ぶのだろうなどと思ったりします。

    しかし最近気づきました。これは恋ではないな。それは異性と接する上で必携の緊張であって、こういうのを恋と呼んでいたら、キリがないな。

 

◆みんなこれにもっと早くに気づいたの!? すごいね!! 私は二十歳になるまで気づかなかったよ……。 恋愛経験が年齢に伴ってないオタクはこれだからダメ。

    やっぱりどう足掻いたって他人の、しかも異性の心根なんて掴みきれんのやし。半歩引いて接するくらいが人と人とにちょうどいい距離なんだろうな。

    でも「これは大人になった証ではない!」とはっきり言わないといけない。あくまでガキから脱出しただけで、やっと半人前。その先には、じゃあ本当に好きってなんなのみたいな話になってくるから。


◆この考えは間違ってはないけど、この考えに固執したらそれはそれで、どの女性に対しても違う違うこれは違う……ってなってしまいかねない。阿呆なオタクは0か1かの考えしかできないから。

    ちなみに先輩には彼氏がいます。もしいなかったら、もしかしたら、この考えに至れず同じ過ちを繰り返していたかもしれないね。オタク、怖いね……。

    先日、ある男とサシ飲みするつもりで声をかけたら、最終的にカップル×2と彼氏持ち×1と私みたいな飲み会になって、延々幸せを聞かされる回になってしまった……。 久しぶりにこれで締めよう。恋がしてえ。

    

オタクは明坂聡美を笑ってる場合か?

 

◆タイトルに特定個人の名前を出して強火で炙るの、オタクのお気持ちエントリらしいよな。

 

◆最近「名前を知ってる有名人」の【ご報告】が増えた。特に追っかけをしていない私には「めでたいねえ」くらいの気持ちしかないが、人によっては相当な衝撃らしい。

    確かに先日の竹達彩奈さん・梶裕貴さんの結婚報告は、『けいおん!』からオタクになった身としては感慨深いことではあった。それを差し置いても、外野が騒がしい。

 

地震が起きたら竹達さんのあのツイートをRTする様式美があるように、近頃声優が結婚すると、オタクがこぞって明坂聡美さんのアカウントへ走るという様式美がある。ご本人がアカ名に「令和は嫁ごう」などと枕詞をつけているのだから、仕方ないところもある。

    未婚自虐はずっと昔からあることだ。今田耕司さんだって久本雅美さんだって、あるいはここに列記するのもおこがましいが、私だって「彼女がほしい」とよくネタにする。

    いやオタク、笑ってる場合か? そもそも笑っていい代物なのか? 思っているよりそのネタは、ずっとずっとセンシティブな気がするぞ?

 

◆未婚自虐・彼氏彼女いない自虐が「周囲の期待に応えるために」行われているなら、それは相当危険な気だ。自虐を自発的にやっていると思い込んでいたら、いよいよ末期である。

    好んで一人でいる人間は(そういう人間は確かに存在する)さておき、本心ではパートナーを求めていながら不遇を自虐し、あるいは他人の自虐を笑うの、間違いなく精神衛生に良くない。それは負のスパイラルになって、共々沼に堕ちてゆく。

    なのでオタクは明坂さんを笑っている場合ではない。はなから結婚する気がないにせよ、本心では結婚したいと思っているにせよ、だ。ツイッターランドはいつだって禍々しいけど、いつまでも足の引っ張り合いをしてる場合じゃないのだ。大人にならないと。

    

◆私の周囲は相変わらず幸せが遍在しており、大変結構である。歳も歳なので迂闊に「愚痴を聞かせてくれ」とも言えなくなった。早く結婚してくれ。

    隣人たちにせっつかれて焦りがないわけではない。おいオタク、気を抜いていると次にやってくるニュースは「名前を知ってる有名人」の【訃報】だぞ。私たちは着実に歳をとっている。もう少し気を引きしめろ。

声音

 

◆女声に憧れてる。


やくしまるえつこaiko、fhanaあたりが特に憧れる声。甘くて優しくて聴いてて耳が溶けそうになる声。男声で言うと平井堅槇原敬之の系統。岡本知高はちょっと別次元。

    あるいは椎名林檎倖田來未浜崎あゆみみたいなキンとした鋭利な声も好き。鋭利な、って表現がとてもしっくりくる。ああいう声で歌舞伎町の女王とかevolutionとか歌えたら楽しいんだろうな。

    いわゆる女性声優のアニメ声も特徴あって好き。最近はミリシタの七尾百合子やバンドリの弦巻こころの役をやってる伊藤美来の声がすごいクセになってる。「Princess Be Ambitious!!」で1人だけすごい響いてて可愛い。

    昔からわりと声フェチだった。だから初めて自分の声を録音して聴いたときの絶望ったらなかった。


◆特に自分の最たる音楽趣味であるボーカロイドの曲は可愛い曲が本当に多い。ワールドイズマイン、メランコリック、スイートマジック、おねがいダーリン……。可愛い声出せたらなあと思ってしまう。

    ボカロに限らず、たとえば先に挙げたミリシタの楽曲「Princess Be Ambitious!!」や田村ゆかりの「Fancy Baby Doll」みたいなガッチガチの女の子曲とかも歌いたい。世界一可愛いって言われたいじゃん。


◆しかし得意な声マネが若本規夫とかニャンちゅうとかいう低音域男声の私だから、めいっぱい喉張って高い声を出したとしても、その声は可愛くはない。

    別に可愛くなりたいわけじゃない。可愛い曲を可愛く歌えないの、もったいないというか、もどかしいというか。楽器が曲に合わせた音色を奏でるなら、声音だって然るべきだと思う。

 

◆私の声ってどんな風に思われてるんだろう。低い声って落ち着かせるとか安心感を与えるとか言われるけど、どうなんだろうか。

    顔と同じくらい人の声って千差万別で、しかも顔ほどにその特徴で褒めたてられたり謗りを受けることがあまりない。実に面白い個性だと思うの。

    世にある多数の声音のなかで私の声音がどの立ち位置にあるのか。誰かを魅了するほどの力があるのかしら。

 

◆ところで私は、意中の男性に大して突然声を高くして「きゃ~~~♡」ってやる女性の声が好きです。あれどうやって出してんだろ。あと電話口だけ突然声が高くなるやつも好き。あれ何で高くなるんだろうな。 

    立憲民主党の枝野さんは、普段はテノール領域の高い声だけど演説のときは意識的に低くしてるとか聞いたことがある。やっぱり使い所で声をいじるの、意識してかないとな。

 

『可愛さふりまくスキルを覚えた! 使うシーンが見当たらなかった……』(初音ミクの暴走)

 

    『使い所』来い、頼む。

    

必要

 

◆人生には無駄な時間が多すぎる。

 

◆会えば必ずコンテンツ論を交わす旧知のオタク。たびたびツイートや当ブログに出現し、その度に「俺の発言を書くな」と怒られるのだが、書く。

    5月12日、コミティア開始の待機列で始まったのは「人生には無駄な時間が多すぎる」という話だった。

『漫画に限った話じゃないけど、コンテンツには無駄なシーンがない。必要なシーンだけが選択されている。一方で、人生には無駄な時間が多すぎる。爪を切ってるときとかな』

    無駄な時間、のたとえが秀逸すぎだ。詩人みたいなことを言うな。私の立つ瀬がないだろう。

 

◆爪を切る動作は決して無意味な時間ではない。伸ばしっぱなしの爪は不健康で不衛生だ。だから決して無意味じゃない。でも、面倒な時間だ。

    無駄なことはあっても無意味なことはないとは誰のセリフだったか。麻雀もシーシャも、コンテンツを摂取することも誰かの惚気や愚痴を聞く趣味も、人生においては全くもって無駄な行いだがちっとも無意味ではない。よしんば誰かの目には「無意味だ」と見えてしまったとしても、私が有意義だと叫べばたちまち有意義になる。私の有意義は私が決める。全ての行いに神の視点から決定権を下す。

 

◆無意味の対義として有意義を使った。では無駄の対義として「必要」があるとして、私にとっての「必要」ってなんだろう。

   たとえば衣食住がそうだろう。しかしそれは人類全体に必要なことであって、私の人生に限ったことではない。私の人生においてのみ必要なことなんてあるのか? 一個人の人生にのみ必要なエトセトラって一体なんだ???

    旧知のオタクは『コンテンツでは必要なシーンだけが選択されている』と言った。しかしそれらはコンテンツを成立させるために必要なシーンだ。作中のキャラからしたら、取るに足らない日常の一コマかもしれない。生存戦略埒外にある「必要」は、神の視点からすらも定義できないんじゃないか。

 

◆ア゙ッッッッッ!!!!!

 

◆もしかしてここで「恋人」が出てくるのか?????

 

◆……もちろん、人生における「必要」は人それぞれだろう。恋人、仕事、趣味。無くても生きていけるけど、無ければ死んだも同然と。

    生きるって「必要」を探すことなんだな。だから私の人生にはまだ色がないんだ。これが無ければ死ぬ物なんて、今のところ持病の薬くらいしか思いつかない。

   ウルキオラは、死に際にようやく「心」に気づいた。そんな手遅れにはなりたくない。22年でまだ見つけられていないのだから、きっとそれを探す力が私には足りてないんだろう。私の井上織姫を、それを見つける手助けをしてくれる人を、早く見つけないといけない。私の「必要」は、気づかないだけですぐそばにあるはずだから。

「拗らせ」 ←読めますか

 

◆「あの、報告があります」やりてえ~~~。

 

◆自分にも恋愛感情は多分にあるので、他を差し置いてでもこの人と、の気持ちがわからないはずはない。はずはないのだが、でも最近、ことに百合の世界にどっぷりずっぷり浸かりこんでいたりすると、一線を超えた愛って一体なんなのみたいな雑音がぐるぐると巡る。

   漫画か何かでひとつぐっさりきたセリフもあった。『あれは童貞の性欲からきてるだけだよ』 みたいな。若い過ちだ。自分にもそんな記憶が、無い訳でもない。

 

◆私の周りにはあんまり相手を取っかえ引っ変えしてるような人はいなくて(そういう人にも会ってみたいけど)、一途な人が多いように思える。反面で長く関係が続くと思うところが多々でてくるようで、ネウロが謎を食らうように私はそんな話ばかり好んで食べる。それはもう性格というか、読売新聞の『人生案内』のコーナーが好きな中学生だったから、今さら変わりようもないのである。

    清濁併せ呑んでの恋愛だからこそ美しい。人間の持つ『めんどくささ』をお互いに理解しあうのって本当に素敵。だのに、そういう所業を乗り越えてなおLoveは移ろうんだから、いやなんというか、すげえよ。

 

◆中高生の頃は、今もTwitter 4P漫画で流れてくるような、恋人同士の甘ったるいつつきあいに憧れていた。今でも憧れるけど、自分の好きなタイプの人って絶対そんなことするような人じゃない。どっちかっていうと「ん、」って言ったら「ん。」で通じるような熟年夫婦みたいな応答に羨望がある。やっぱ歳とったからか? うっすら結婚の文字が見えてくるからか?

    いやあ拗らせ。「拗」って漢検1級レベルだって。5分に1回くらい言われてるんだけど。『おたくくんさあ……拗らせすぎ』

    てへんに「幼い」なんてよくできてるよなあ。頭の中で幼さ(あるいは童貞臭さ)をパン生地みたいにこねくり回してる様子がありありと浮かぶ。

 

◆「彼女がほしい」って迂闊に言えなくなった。その一言のバックグラウンドを考え始める自分が惨めになる。本当に彼女がほしいの? 都合よく自分を励ましてくれて、ときに情事に到れるような人がほしいだけなんじゃないの? 「あの、報告があります」ってやりたいだけじゃないの???

    どうしてその人だったの、って聞いてもみんな「わかんない」って言うしなあ。「推しが尊かったから」とかいう人もいたな、あれはホントに得心がいった。

     皆々様末永くお幸せに。最近インターネットは暗い話ばかりなので、愛しあう人達の絆されだけが癒しです。明るい話、いつか自分から持ち込まないとな。

世界の隅っこで

 

◆ワン・ツー。

 

◆音楽のジャンルについてはあまり好き嫌いがないという自負がある。沢田研二から米津玄師まで、多様なジャンルにハマれる。この感性の背景には、人格形成期といわれる14歳のころにどっぷり聴き込んでいた初音ミクがいることは間違いない。

    今でこそ漫画を専攻としているオタクだけど、そもそもの専攻はボーカロイドだった。毎週ボカランを欠かさずチェックしていた。プレイリストはボカロだらけだった。好きなPの新曲がランキングに上がったときなどは天に舞い上がるような気持ちだった。無限に暇だったあの頃、期せずして感性に磨きをかけていたというのはラッキーだった。

 

◆現実のミュージシャンと異なり、初音ミクには初音ミク自身の曲調がない。作曲者の数だけの色があり、それらを無差別に聴いた経験が、今の「何でもハマれる」自分に繋がっている。

    特に今の自分に繋がっているなあと感じるのは、梨本ういさんの厭世観と、すこっぷさんの女性的感情だろう。こうして書いたものを読み返してみると、恥ずかしいくらいにその影響を痛感する。

 

◆そうして私の14歳が徐々に固化され、22歳の私の人格がある。あの頃の思い出は何もかもが眩しいし、かけがえがない。遠い記憶でも隅っこで光り続ける私の欠片。その一片が、平成の終わりとともに突然砕け散った。

    wowakaさんが亡くなった。samfreeさんやほわほわPが亡くなった以上の虚しさだ。14歳のあの頃、とち狂ったように聴いて歌った「ワールズエンド・ダンスホール」 歌ってみたもMADも無数に作られた。無数に見届けた。間違いなく私の中核のひとつを作り上げた人が、亡くなってしまったのだ。

 

◆可愛い可愛い少年私には、あのリズムが気持ちよかっただけだった。今となっては歌詞が響く響く。『きっと何一つ変わらないから、枯れた地面を這うの』 全く無味乾燥な毎日そのものだ。辛くっても這って進むしかない。

    破片が砕け散ったとしても、砂粒を集めればきっと輝く。光の下で踊り明かして高みを目指せばきっとそこには、感嘆の光景が広がっているんだろう。死ぬまでに必ず見届けてやる。下々を見下ろして高らかに叫んでやるんだ。

 

『なんて綺麗な眺めなんでしょうか!』

転機

 

◆進行形で「転機」を自覚している。これは滅多にない経験なので、大切に、丁重に扱わなくてはならないし、活かさないといけない。

 

◆度々書いているけど、私の人生における最初の転機は間違いなく彼と出会ったことだし、そして彼と別れてしまったことだ。彼がいたから今の自分がいて、自己がある。あまり使いたくない言葉だけど、これだけは「絶対」間違いないと断言できる。

    しかしそれも今だからこそ言えることで、高校生だったあの頃にそんなことは露ほども考えていなかった。かなり親しい友人の一人だとばかり。転機なんて普通は即時に自覚できるものじゃない。今もずっとずっと後悔を引きずっている。

 

◆だから今、自分に転機が訪れていることを自覚している今、この感覚を大切にしなくてはならないと日々痛感している。この書き物は、あとで失いたくないそのときの感情を忘れないための「記憶たる記録」なのだから、この感覚は正確に書き残さなければならない。

 

◆このまま大学院を修了して、適当に理系の企業に就職するんだろうと漠然と考えていた。大学も研究室もネームバリューだけはあるから、就活も何とかなるだろうと思っていた。

    だが今や、化学そのものへの興味が失われてしまった。元より無かったのかもしれないが、今や苦役でしかない。そのはてに今、ひとまず理系就職だけは「絶対」にしないぞという踏ん切りがついた。この二年を終えたら、世界の理を追求する世界から離れてやるんだという気持ちで満ち溢れている。

 

◆この一年は人の性愛憎悪に多く触れた。こんなこと高校生の頃以来で、しかもあの頃よりそれらの質が強い。幼い頃の真ん中ストレートの好き嫌いではない。成熟した感情のもつれ・しがらみ。その複雑さはとても素敵だった。

    旧知のオタクが言うには「人は『関係』を主食に貪る」 世間を賑わす芸能人のゴシップ、作中で描かれないカプの二次創作。どれも一生自分が介入することはない『関係』なのに、追求してしまう。それは論理で片がつく話ではない。しかしその不可解さに惹かれてしまう。

 

◆客観する『関係』の美しさに惹かれてもうすぐ10年だ。これに縋って生きていきたい! その強い願いがこの一年で確信に変わった。これこそ最大の転機だ。

    世界の理より人の情だ。死ぬな、生きろ。性愛憎悪を育め。紙一重で覆る好き嫌いをもっと見せろ。一人一人が高解像度のコンテンツであれ。人間を、関係を、右ストレートで撃ちこんでくれ。

    そうして充足に溺れながら死ぬんだ。いつか来たるそのときに後悔なんて「絶対」したくない。その確固たる信念で、今日も誰かの物語を紐解いていく。