ちょっと長めのツイート

お気持ちを配信しています

#春から大学生 のみなさんへ

 

◆母校の後輩の活躍が目覚ましいですね。春から新大学生になる皆さんに、ささやかながら、卒業祝いの老婆心を贈りたいと思います。

 

◆「入学式で会お~~~♡」というのは、もうすでに皆さんの楽しみの1つになっていることと思います。特に高外の方は、高校入学時はリスタートだったもんだから、会う人会う人が初見という環境で実に大変だったでしょう。それが最高学府の、しかもトップレベルの学校で同窓生というのだから、そのステータスは自分たちの仲をさらに深めることになるでしょう。

    しかしです。入学式で同じ高校の人と群れると、後々禍根を残す一端になるかもしれません。

    つまり、結局同窓生との居心地の良さが勝ってしまって、新天地での交友関係を築くことを阻害することがあります。私はこうして死にました。

    せっかく日本の頭脳のトップが集まる東大京大エトセトラです。積極的に交友関係を広げてください。それは、後の人生に大きな影響を与える事になりますから。

 

◆成人を機に合法的に(合法的に!)お酒や煙草をやれるようになります。あるいはダーツやビリヤード、アウトドアやシーシャなど、ある程度お金のかかるハイグレードな遊び。はたまた、あまりおすすめはしませんが、夜遊びといったこともまた然り。

    新しい趣味を見つけることもまた大いにいあことです。ただし、のめり込むことには気をつけましょう。

    特に酒。特にストロングゼロとショット。この辺りを魔剤の感覚で(なんと魔剤よりちょっと安い!)常飲すると、もれなく死にます。煙草はもっとダメです。酒と違ってダウナーな方に落ちます。延々と鬱屈とした日々が続きます。私はこうして死にました。

 

◆最後に、これが一番重要です。しかと肝に銘じてください。いいですか。授業には出ましょう。

    みなさんが思ってるほど単位をとることはそこまで難しくないです。昨今の大学は出席点にかなり比をとっています。授業に出るだけでかなりのアドバンテージを得られます。授業に出ないだけで死にます。幸い私はまじめちゃんだったので授業をサボったことも単位を落としたこともほとんどありませんが、これで死んだ人間を星の数ほど見てきました。

 

◆上の3つさえ守れば、健康で文化的な最低限度の大学生活を送ることができます。欲を言えば、これに加えて「恋人あり」のステータスがつけば、文句なしです。私はここでも死にました。

    ビバ☆大学生。大丈夫です、きっと楽しい学生生活が待ってます。新たな出会いは、必ずあなたの人生を豊かにします。4年間は本当にあっという間です。ぜひ、悔いのないように、1日1日を大切に過ごしてください。

自由な孤独

 

◆腰をいわした。くしゃみをするたびに激痛が走る。身をかがめることも辛い。咳をしても一人。しかし、楽だな一人。

 

◆大学のロックアウト期間中、特に行くあてもやることもなかったのでひたすら引きこもっていた。私がそうしている間も家族は忙しく、一人でいるにはでかい家でひたすら「自由な孤独」を貪った。家族のいない我が家ほど快適で心地いい場所はない。

 ロックアウトの一週間でマストのタスクは修論計画書と就活が少しくらいだったので、それらを早々に終わらせたあとはひたすらパソコンとにらめっこしていた。VTuberの切り抜きを見たりMinecraftを始めてみたり、文章を書いては消したりK-POP平沢進のライブ映像を見たり。楽しいはいくらでもあった。無限に自由だとえてして暇になるとか言ってた人たち、真剣に暇と向き合ったことがないんじゃないか?

 

◆金曜日の夜、映画『ミッドサマー』の公開がTwitterのトレンドに上がった。いかにも私の好きそうな映画で、その日のうちに翌日12時からの上映にあたりをつけた。実に一週間ぶりの外出が決まった瞬間であった。

 さて、どうしよう。声をかければ来てくれそうな人はいる。鑑賞後にシーシャをキメながら感想戦をするのも悪くない。だけどどうして、この一週間の「自由な孤独」があまりに楽しくて、連休終了まで人に会うのが億劫になってしまった。それで私は翌日土曜日、一人でJ.S. BURGERS CAFEでハンバーガーを食べ、池袋HUMAXシネマズで『ミッドサマー』を鑑賞し、シーシャをキメた。帰りの電車で心に残ったのは、言い表しようのない多幸感と、言い知れない虚無感と。

 

◆実にわがままで身勝手だ。一人でいることをそれなりに楽しむくせに、あるとき急に虚しさを覚える。それはミクロに一日単位で、あるいはマクロに一年単位で、躁鬱を繰り返す。一人を楽しもうと決めたのにTwitterで友人にリプライを飛ばす。『ミッドサマー』を観たあとも結局LINEで即日感想戦をした。「自由な孤独」を楽しんでいるだなんて、結局強がりだったなあと気づかされた。友人はここにはいなくてもどこかにはいて、どこにいようとも何かしらで繋がっているという事実に、もたれかかって慢心しているだけだった。これがインターネットの結末なのか。

 明日からまた社会に引き戻される。ここまで引きこもった生活ももう当分送れないだろう。明日からはまた少しずつ、人の温かさとか何とかを噛みしめていこうと思う。

返し餞

 

◆どうかこのお気持ちが、先輩の目に届きませんように。

 

◆たびたび私のエントリにも登場した研究室の1個上の女の先輩が、この度卒業を迎える。

非常に気さくな人で年齢や性別の壁も感じさせず、なんというか、母校にいた女性に似た匂いがした。それで私も楽しくなって、しっぽをぶんぶんと振り回す犬のように懐いていたので、此度の卒業はとても、悲しい。

 

◆中学も高校も好きな先輩はたくさんいたし、都度都度「卒業」も見送ってきた。でも別に、会えなくなるわけではないしなあと思う心がどこかにあったから、特別むなしいと感じることはなかった。

    あるいは逆に後輩に見送られるときも。幸せなことに私を慕ってくれる後輩に恵まれて、自分が卒業するときは大袈裟に悲しんでくれた人もいた。どうせ東京にいるんだし(同じ大学に進む人もいたし)、よくもまあそんなに手放しに悲しんでくれるなあ、なんて。今にして思えば、斜に構えすぎなクソガキだった。そういうことじゃあないんだよな。

 

◆人は決して独りでは生きていけず、同じ屋根のもと、共同生活と言う名の同棲を強制される。それは家族の集う家庭から始まり、学校の教室、研究室やオフィスなどを経て、果ては妻(夫)と育む愛の巣、新たな家庭へと。

    ときに、決して戻れないあの頃あの場所を懐かしむ。あるいは、共同生活を送っていた人とその後どれだけ会う機会があったとしても、それは交錯しない人生の報告会となる。あの頃のような濃密な関係は、二度と帰ってはこない。

    

◆少なくとも大学での5年間は、あとでわざわざ振り返るような美しい過去は、そう多くはなかったな、そう思っていたのに。今夜の飲み会で酔っ払った先輩から、何物にも変えがたい「返し餞」を頂いた。

『私、君が入ってすぐの頃に言ってくれたあの言葉が、めちゃくちゃ嬉しかったの』

『だから君には、本当に嫌われたくなかった』

私はその言葉を、冗句のように、ジョークのつもりで適当に言ったのだ。それが2年経ってもなお先輩の頭に強く残っていたなんて。あの言葉が、そこまで先輩の心に響いていたなんて。

    こうしてお気持ちを言語化することに日々尽力していることなんて先輩は露ほども知らないだろう(というか知られたくない)。結局、どれだけ練りに練って編み出した美辞麗句よりも、何の気なしに放った言葉の方がよっぽど響いたりするのだ。いや、そんなことばかりだ。きっとこれまでも、そしてこれからも、些細な言葉で誰かを喜ばせ、あるいは傷つけるのだろう。

    ご卒業おめでとうございます。私は何度も何度も院進したことを後悔したけれど、先輩に最後にそう言ってもらえただけで、この大学での5年間に価値を、そして残りの1年間にも希望を見いだせました。本当に、ありがとうございました。

 

   

自意識過剰の差し馬

 

◆目に見える不安ほどストレスになるものはない。その通りである。

 

◆知っての通り(自意識過剰)、私には先延ばしの癖がある。期限が設定されているなら、期限内に終わらせればいいじゃないかの魂胆。それはどうも母親譲りらしく、目の前のタスクは迅速に、がモットーのいらちな父親からよく怒られが発生する。

    そういう癖がついてしまったのは、ひとえに今までの人生そのもののせいである。すなわち、今までの人生ではタスクを先延ばしにしてなんとかなってきたという「悪しき経験」だ。

 

◆わかっている。絶対に、いつか足元をすくわれる。現に今も研究室関連の雑務において窮地に立たされている。こんなお気持ちを書いている暇はなく、早く部屋に戻ってキーボードを叩け、という話なのである。

    しかし、私の人生が作りだした悪しき経験の悪魔は甘く囁く。まだ大丈夫。まだ期限ではない。君にはまだ残された時間があり、それはすなわち君の余暇だ、と。

 

◆そうして今日も怠惰を貪ってしまう。一方で私は信念として、少し啓発セミナーみたいな言いぶりになるけど、自過剰になることは、そのうえで事を成すことは、一種の成功経験になると思っている。

    日本人は(主語がでかい)、そういう自意識過剰な人を嫌う傾向にあるし、かくいう私も他人のそれに関しては鬱陶しさを感じてしまうところはある。ただ、社会的な成功を収めている人を見る限り、間違った考え方ではないのだろうと、安心してしまってもいる。

 

◆「やりたいこととやるべきことが一致したとき 世界の声が聞こえる」 このお気持ちブログでも度々引用している銀河美少年の金言だ。初めてそれを聞いた中学生のあの頃から、ずっとこの言葉が私の胸に引っかかっている。

    オタクなのでかっこいい言葉をさらに引用すると、ドストエフスキーも似たようなことを言っている。

絶望の中にも焼け付くように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退窮まった惨めな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである。

死地からの快復、これほど人にエネルギーを与えるものはない。最後の直線でケツを叩かれる差し馬のように、今日もデッドラインと戦っていこう。

 

 

 

※そうは言いますがきちんとタスクをこなしていくことが「上手く生きる」ということです。各位はあまり真剣に受け止めないでください。

2019-12-34

 

◆noteからはてなブログに移行してもうすぐ三年になるんですが、PC用ホーム画面のテーマを変えられることに今頃気づいて。好みの浅葱色でまとめたシンプルなデザインにしたので、PCから入れる人はぜひ見ていってください。ヘッダー画像募集中です。

 

◆明けましておめでとうございます。明けたんですよね? そう聞きました。

 あっという間に三が日が終わりそうですが、いかがお過ごしでしょうか。私はインフルエンザでぶっ倒れていました。

体温39度で年越ししたので、年末年始の高揚感みたいなのが一切ありませんでした。ただの体調悪い日。聞けば私、今年本厄らしい。大晦日からフライングで厄が訪れてきて大変でした。ワクチンは打とう。

 二晩明けて今はすっかり体調ヨシッ!! なんですけど、結局親類縁者には会えなかったし、初詣イベントもなかったし……。何だか年越しに失敗した気分なんですよね、一人だけ2019年の12月34日をやっているような。そんなゲームバグ、昔ありましたね?

 

◆例年の私は、自分の誕生日や夏休みが終わる8月が終わり、徐々に涼しさが出てくる9月になったあたりで「早く今年終わらねえかな」とぼやき始めます。9月以降に対したイベントがないからです。昨年の9月も例に漏れずそうでした。何より「早く大学院を出たい」という気持ちがあったために、欲を言えば二年分まとめて明けてくれないかなとすら思っていました。

 しかし、9月からの自分の破滅っぷり堕落っぷりには目を瞠るものがありました。なまじ小金があるばかりに、暇を作ってはシーシャに行き、あるいは麻雀を打つ始末。おかげさまで———本当はこれを書いている暇すらないんだけども———研究の進捗がまるでない。2週間後に進捗報告のゼミがあるのに、スライド一枚作っていない。

 さすがにツケがまわってきた。年明けになったら本気を出そうと腹を括ったのが12月30日。そしたらできすぎた笑い話のように、翌日大晦日に39度の発熱。目覚めた瞬間体のダルさにすぐに気づいて「タイミング良すぎだろ」って笑ってしまった。

 

◆たぶんまだ年は明けてない。向こう20年分の閏年をかき集めて、12月36日くらいまで2019年は続くはず……と、ベッドの上で熱に悶えながら妄言を吐いていたのが昨日。今朝になって平熱になった途端、雑コラ夜神月みたいに急に冷静になった。インフルエンザはわりとすぐ治るし、誇大な妄想もわりとすぐ崩れる。

 とりあえず箱根駅伝の放送をチラ見することで2020年であるという現実を受け入れました。しかしやっぱりまだ実感がないので、年始私にお会いする人はお年玉をくれたりすると助かります。こんな調子ですが、今年も一年よろしくお願いいたします。

 

 

ラーメンにはにんにくを入れろ、月曜の昼でもだ。

 

◆そんな程度の低い遠慮で「できた人間」を演じるな。

 

◆寒々しい年末です。令和ちゃんは相変わらず気温調節のつまみ操作がヘタ。SOUND VOLTEX初心者か?

    こう寒いと暖かいものが食べたいですね。鍋、おでん、それもいいでしょう。しかしそんなハイカラなものは酒乱の街・高田馬場には存在しません。セブンイレブンが関の山。馬場で温まるには、ショットを呷るか、でなければラーメン。あるいはつけ麺、油そば。これに限ります。

 

◆「にんにく入れますか」

    月曜日のある昼時、麺屋でそう聞かれて、淀みなく「お願いします」と頼んだ。しかし周りを聞けば「いらないです」とか「少なめで」とか。

    なぜだ。月曜日の昼ごはんだからか? すぐまた研究室に戻って人と会うからか? それともこの後キスのご予定が? ……まあ年末だもんな。ご予定があってもおかしくないよな。

    そうして人間は口臭一つに美を纏う。いや、否定はしない。それは間違いなく正しい。ヤニカスでコーヒーカスなので口臭への美意識は失ってしまったけど、本来はそうあるべきだ。しかし、しかしだ。お前だってそれ、ラーメンだぞ? にんにく、入れたくないのか?

 

◆若者の強みなんて一にも二にも「若さ」だろう。明日なんて知らない、今を楽しめの刹那主義じゃなかったのか。

    今年は縁あって文学フリマに二度寄稿させていただいた。初めての寄稿文となったいつか消える灯台のなかでも、若者の刹那主義に触れた。消えいくストーリーをものともしない感性こそ今の若者。「今を生きる」 その輝きこそ美しいんじゃなかったのか。だのになぜ、数分後のためににんにくを遠慮するんだ。

 

◆私の行動倫理の根底には、いつだって死の影がつきまとっている。二秒後、車に引かれるかもしれない。五分後、心停止するかもしれない。こうしてお気持ちを言葉に表すようになったきっかけだって、そうなのだから。突如来たる虚無を思えば、今に妥協はしたくない。

    今年も“運良く”年末を迎えられそうだ。また一つ老いることは確かに虚しいけれど、しかし、来年もまた年末を迎えられるとも限らないのだ。だったら。今食べてる飯がより美味くなるなら、にんにくは入れるだろう?

    

◆クリスマスソングが街に響き渡るようになった。手を繋いで歩く二人を横目に、今日も私はポケットに手を突っ込んで、寒さに身を縮ませながら鬱々と歩く。

    どうか幸せに年越ししてほしい。クリスマスも年末も特別な日だ、後悔のないように。いや、特別な日に限ったことでもない。ありふれた平日でも、あとになって振り返ればそれはかけがえのない「あの日」になるのだから。

精一杯、目一杯の今が、楽しかった過去になるのだから。だから、お前ら。

 

ラーメンには、にんにくを入れろ。

 

    

すばらしい日々

 

◆この退屈な日々だってすばらしいものだと思えるような。些末な言葉だって、その1つ1つが私の血肉たりうるのだと、そう思えるような感性を磨いていきたい。

 

◆オタクを集めてシーシャを吸い、夜の新宿を歩き、ほろ酔いのなかでお気持ちを吐露する会が行われた。

写真が美しいので「は? 随分シャレた休日してんなオタク?」といった感じだけれど、会話にのぼることといえば、推しがどうとかインターネットがどうとか、あるいは恋愛がどうとか。はたから見ればしょうもないことばかりだけれど、それが楽しくって仕方ない。

 

◆旧知のオタクから「ジビエ食いに行かね?」のお誘い。返しに「分子ガストロノミーはどう?」なんて。 そういえばあいつんチに喧嘩商売全巻とはねバド! 置きっぱなしだな、あれも取りに行かないと……恋人か? 

    突然やってくる麻雀の誘いとか、遠方に住む悪友からの「東京帰るので会おうよ」とか。不定期に飛んでくるLINEの通知。多かれ少なかれ必要とされていることに充足を覚え、承認欲求が満たされていく。

 

◆恵まれていると思う。幸せだと思う。孤と個を尊ぶ性格で、1人でいることに苦痛を感じない私にも、一緒にいることが楽しい人がこんなにもいる。なんと幸せなことだろう。

    私は彼ら彼女らに応えられているだろうか。全力でこの余興を楽しめているか。相手を楽しませているか。私だけがひとりよがりに幸福を享受するようなズルは、きっと、していないよな? 

 

◆『いつのまにか僕らも 若いつもりが年をとった』 まだ23歳とはいえ、たとえば中高生のパワフルさなんかには、とてもじゃないけどもうついていかれない。それでも。

『すべてを捨てて 僕は生きてる』それくらい強い意気で、日々をぶっ生きていかなくちゃ。平気で徹麻したりオールで飲んだりできるような若さも、もう息絶えそうなんだから。

 

『君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける』

 

私が彼ら彼女らを忘れないように、私もまた君たちの記憶に強く私を残していきたいんだ。