ちょっと長めのツイート

お気持ちを配信しています

何者にもなれないとふんぎりがつかないまま一年が経ったぞ

 

◆1年間なにしてたんだよ。

 

◆大不況の就活戦線ですが、すでにボコボコと面接を落とされています。やばいんじゃないかな、やばいんだよな多分と思いながら、しかしまだ能天気に笑っている。テレワークだからって積読消化に精を出してる。危機感がない。

 結局それはいつも通りの生存バイアスで、なんだかんだどこかに受かるだろといまだに思っているし、最悪全部落ちたとしてもどうにかなる、何かしらの仕事にはつけると思っている。最低ラインが「死ななきゃいい」だから、そんな甘い考えを捨てきれずにいる。

 

◆まだ受ける企業は本命も含めていくつか残っているし、戦う前から負けることを考える馬鹿がいるかよとアントニオ猪木も言っていたけれど、それはそれとして、来年度末にどんな結末を迎えたとしても、それを納得して受け入れるだけの覚悟なり言い訳なりを自分に課さないといけない。あるいはどんなネクストステージだったとしても楽しめるだけの、心の余裕みたいな?

 実際私は自分の人生の自己評価を高めがちな人間なので、今後もその点に関してはあまり不安は抱いていないんだけれど。本当に恐れているのは、客体評価だったりする。こんなお気持ちブログを全世界に発表しておいてなんだけど、こう見えて意外と、人の目気にしいだったりする。

 

◆客体評価といっても、たとえば私の友人などは、職業を貴賤づけして笑うような人ではないですから、無職でヒモでパチンカスぐらいまで堕ちきらない限りは優しくしてくれると思っています。

 ただ大人たちはそうはいかない。特に私の父などは、院まで行ったんだから名の通った企業に行くのが当然というか。最悪どこかに就職しさえすれば何も言ってこないとは思うけど、内心で私に大企業→結婚→初孫の「正解」を望んでいるのがひしひしと伝わってきて、つらい。

 結局自分がどこに行きたいのか、ふらふらしているのをくどくど言い訳しているだけなんだろうけど。せめても、よくある「何にも興味がわかない」タイプではなく「何にでも興味が湧いてしまって、一つに真剣になれない」タイプの人だったのが救いというか。しかし24歳にもなるというのに、仕事にしたい事柄一つきちっと決めきれないのは、情けないですね。

 

◆『もういちど、さようなら。姉さん。僕は、貴族です。』

 太宰治の『斜陽』を読みました。主人公・かず子の弟・直治が、作中で自殺する際の遺書の、最後の一節。貴族にもなれず、不良にもなれなかった直治の苦悩が理解できてしまうというのは、実に贅沢な身分だなあ、などと。

 何者にもなれないと書いて、気づけば一年が立った。就活一つきちんとできないやつが、堕ちきるとこまで堕ちきる覚悟も持たないで、それで最期は、何になって死にたいと望むんだろう。