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返し餞

 

◆どうかこのお気持ちが、先輩の目に届きませんように。

 

◆たびたび私のエントリにも登場した研究室の1個上の女の先輩が、この度卒業を迎える。

非常に気さくな人で年齢や性別の壁も感じさせず、なんというか、母校にいた女性に似た匂いがした。それで私も楽しくなって、しっぽをぶんぶんと振り回す犬のように懐いていたので、此度の卒業はとても、悲しい。

 

◆中学も高校も好きな先輩はたくさんいたし、都度都度「卒業」も見送ってきた。でも別に、会えなくなるわけではないしなあと思う心がどこかにあったから、特別むなしいと感じることはなかった。

    あるいは逆に後輩に見送られるときも。幸せなことに私を慕ってくれる後輩に恵まれて、自分が卒業するときは大袈裟に悲しんでくれた人もいた。どうせ東京にいるんだし(同じ大学に進む人もいたし)、よくもまあそんなに手放しに悲しんでくれるなあ、なんて。今にして思えば、斜に構えすぎなクソガキだった。そういうことじゃあないんだよな。

 

◆人は決して独りでは生きていけず、同じ屋根のもと、共同生活と言う名の同棲を強制される。それは家族の集う家庭から始まり、学校の教室、研究室やオフィスなどを経て、果ては妻(夫)と育む愛の巣、新たな家庭へと。

    ときに、決して戻れないあの頃あの場所を懐かしむ。あるいは、共同生活を送っていた人とその後どれだけ会う機会があったとしても、それは交錯しない人生の報告会となる。あの頃のような濃密な関係は、二度と帰ってはこない。

    

◆少なくとも大学での5年間は、あとでわざわざ振り返るような美しい過去は、そう多くはなかったな、そう思っていたのに。今夜の飲み会で酔っ払った先輩から、何物にも変えがたい「返し餞」を頂いた。

『私、君が入ってすぐの頃に言ってくれたあの言葉が、めちゃくちゃ嬉しかったの』

『だから君には、本当に嫌われたくなかった』

私はその言葉を、冗句のように、ジョークのつもりで適当に言ったのだ。それが2年経ってもなお先輩の頭に強く残っていたなんて。あの言葉が、そこまで先輩の心に響いていたなんて。

    こうしてお気持ちを言語化することに日々尽力していることなんて先輩は露ほども知らないだろう(というか知られたくない)。結局、どれだけ練りに練って編み出した美辞麗句よりも、何の気なしに放った言葉の方がよっぽど響いたりするのだ。いや、そんなことばかりだ。きっとこれまでも、そしてこれからも、些細な言葉で誰かを喜ばせ、あるいは傷つけるのだろう。

    ご卒業おめでとうございます。私は何度も何度も院進したことを後悔したけれど、先輩に最後にそう言ってもらえただけで、この大学での5年間に価値を、そして残りの1年間にも希望を見いだせました。本当に、ありがとうございました。