ちょっと長めのツイート

お気持ちを配信しています

君に誓う

 

 

    結局泣いた。堪えようという思いはなかったから、流せるだけの涙を流しておいた。ただ、私は何に対して涙を流したのか。何が悲しかったのか。

 

 

 

 

    彼の死は本当に辛い。そこらじゅうに姿をあらわしては、強く影響を残して去っていくような人だったから、今もなお彼の面影がそこかしこに見えてしまう。「こんなとこにいるはずもないのに」、そうわかっていても探してしまう、歌にあるように。

 

    安らかに眠る彼を見て、ふっと祖父のときの光景が頭をよぎった。あのときもたくさんの華で埋め尽くした。みんな涙していた。あのときも私は、涙を流せずにいた。


    きっと私は、人が死ぬことには諦念の心でいるのだ。祖父は長い闘病の末の大往生で、むしろ誇らしくさえ思っていたから、泣けなかったのだろう。


    彼は違う。訃報を聞いたときも、棺に華を添えるときも、「なぜこんなにも早く」、そればかり考えていた。彼だっていつか死ぬことにはかわりないけど、なぜこんなにも早いのだ。運命か死神か閻魔様か、私は何を恨めばいいのだろう。

 

 

 

    初めて涙を流したのは、友人による弔辞を聞いたときだ。その言葉は、ひとつひとつに重みを感じて、じわりじわりと私を苦しめた。胸につっかかっていた思いは涙となって、ようやく少しだけ、気が楽になった。

 

    しかし何より私の胸を痛めつけたのは、「行かないで!」という慟哭だった。この世界に留まってほしいのは誰もが思うところだが、彼は彼の行くべき場所に行かなくてはならない。それは私の死生観であり、私のエゴだけど、そう割り切らないと、いつまでもこの世に彼を留めてしまう。

 

 

 

    言葉は最高の発明だが、それはあまりにも力を持ちすぎた。言霊ともいうほどだ。空気が震えるだけのそれが、私たちに及ぼす影響は計り知れない。友人の弔辞然り、行かないでの言葉然り。


    それでいて私たちは言葉に対する防衛手段を持ちあわせていない。見たくないならまぶたを閉じて、臭いときには息を止めれど、聴きたくないものに対して助けを借りずにシャットアウトすることができない。

 

    出棺中、誰もが彼に最期の挨拶を述べて、あるいは悲しみの涙をこぼし、嗚咽していた。私が彼を喪って覚えた悲しみがあるように、あの場にいた1人1人が特別な悲しみを抱えている。その言霊に私の耳はレイプされ、悲しみは共鳴して、増幅した。その増幅にキャパシティが耐えきれなくて泣いた。私1人だけの悲しみなら、ああも泣かなかっただろう。

 

 

 

    出棺してしまえば、彼は彼から故人になる。そうなると私の心には諦念しか残らない。「人は死ぬ」。もうこの世に彼はいない。向こうで楽しく過ごしている(と信じている)彼を、思うことしかできない。

    だから、もう涙は流さない。流せないのではない。彼との思い出は忘れないけど、彼をここに留めてはいけない。
   これから私は、彼の力を借りないで生きていく。どうか私のことを見ておいてほしい。暇が嫌いだった君の暇つぶしになるような、楽しい人生であってみせよう。

 

 

 

※2016/08/22   「言霊のレイプ」改題