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「理想」を見せられて

 

 

    このひと月で、三組のカップルと出会った。

 

    付き合ってる期間も知り合い方もまるで違う3組なので、三組三葉の仲睦まじい姿があった。私がまだ誰とも築けていない、二人だけに許された距離感にただただ憧れた。

 

    非リアをステータスとし、その自虐ネタで星が飛んでくることを良しとするTwitter人生だった。まるで、非リアであることに命をはっているのかと思われそうなくらいに。
    今でも彼女が欲しいかと言われると怪しい。彼女なんてめんどくさいだけ、とはさすがに思わなくなったが、率先して作りたいと思っていないあたりは進歩がないなぁと情けなく思う。

 

    よく彼氏/彼女がいる人とサシで話す。そういう機会が本当に多くて、その経験から私恋愛知ってますからと錯覚しているような男が私だ。本当はピーマンのように中身がない、申し訳程度の中綿があるだけだ。
    私のことはさておき、そういった場でその人に彼氏/彼女とどうですかと聞くとどうにも愚痴ばかりなのである。延々と惚気を聞くよりは聞きがいがあるが、お独り様のピーマンとしては、今後に活かせそうな経験談として惚気も聞きたいんだけどなあと思うのである。

 

    しかし三組のカップルをじっと見ていると、その一挙手一投足が私のずっと憧れ続けている「理想」であることに気付かされる。ずっと聞きたかった惚気は眼前で堂々と繰り広げられていた。
    パーソナルスペースをものともしない自然体なボディタッチ、目と目で通じる何か、額が触れ合いそうな顔の距離感。こうも鮮やかに形づくられる「理想」を前に、昔なら心の奥でそっと中指を立てていただろうが、今はただ赤子のように親指くわえてないものねだりである。
    惚気話をしないのは独り身への遠慮かと思っていたが、こうして視覚的に惚気を見せつけられると、幸せを語るのに言葉は無力だなと思い知らされる。

 

    映画好きの酔いどれのおっさんに「お前はスプラッタばっか観てないで恋愛モノも観ろ」と説教された。
    それはその通りなのだが、これだけ素敵なノンフィクションを見ているのだから、恋愛映画を見る必要を感じなくなってしまう。
    恋がしてえ。私もリアルなノンフィクションを演出してえ。そう思うほどに、このひと月はいい恋愛映画をたくさん見たような満腹感がある。もし彼女ができたら私はその幸せを言葉にできるだろうか。きっと私はオタクだから「優勝!」くらいしか言えないだろう。

 

 

※2017/03/13のnoteを一部修正