ちょっと長めのツイート

お気持ちを配信しています

そこにファンタジーがなくても

 

誰にでも、忘れられない夏がある。

映画『ペンギン・ハイウェイ』  キャッチコピー

 

◆ある日突然、街中にペンギンが現れた。そんなシーンから始まる映画『ペンギン・ハイウェイ』を観てきた。知的な少年アオヤマくんとおっぱいの大きいお姉さんと、ペンギンを巡る一夏の冒険。というより「研究」か。

    アオヤマくんは多忙だ。ペンギンの謎を追い、川の源流を探し、お姉さんとチェスをする。溢れる知的好奇心とそれに素直に従う行動力は見習わないといけないところだ。

    研究の果てにアオヤマくんがたどり着く「仮説」は、少年の彼にはひどく苦しいものだった。アオヤマくんのファンタジア溢れる一夏は、どうしてか僕に、あるはずのないノスタルジーを抱かせた。

 

◆ペンギンを追い、川を遡り、森の茂みを抜ける。アオヤマくんたちの冒険にはどこか見覚えがあった。それは、昔何度も観た映画のそれだった。

   幼い頃、僕の家には『となりのトトロ』のビデオテープがあって、何度も何度もそれを観た。当時はすごい田舎に住んでいて、まだインターネットなんてなかったから、他にやることがなかったんだと思う。

    そのときの僕がどんな気持ちでトトロと接していたのかまではさすがに覚えてない。でも気がついたころにはネットに感化されてトトロ死神説などを考えていた。メイがあれほど訴えていたのに、いつのまにか僕はトトロを信じる童心を失っていた。

 

◆それでも。たとえば手元で爆ぜる花火とか、照り返しが眩しい海の波面とか、あるいは友達の家でやったスマブラマリパでもいい。トトロには会えなかったけど、夏は楽しさで溢れかえっていた。いろんなことが楽しかった。いろんなことに興味が湧いた。そこにファンタジーはなくても、夏はいつだって輝いていた。

    ふりかえって今夏。平成最後の夏だというのに、遅々として進まない研究に憂える毎日。『ペンギン・ハイウェイ』はその疲れ冷めきった心に染みわたった。愛らしいペンギンと、ふくよかなおっぱいと、あまりにも眩しい青色。トトロ以上に『あったかもしれない夏』が、どこか懐かしかった。

    

◆「ペンギン・ハイウェイ」とは、ペンギンが海から陸に上がった際に決まってたどる一本道のことだそう。しかし僕には、まだ「この道!」たる道が見えていない。

    22回目の夏もそろそろ終わる。本腰を入れて前を見据えるためにも、この度の「忘れられない夏」の追体験は非常によく効いた。トトロに会えなかった人へ、ぜひあのハイウェイにぜひ乗ってほしい。

 

みんな主人公だった

 

毎日クラスで話している友達が、突然主人公になる。普段はアホなことしか言わないあいつが、めちゃんこかっこよくシュートやスパイクを決めたり、ステージで歌ったり踊ったり。でも試合やステージが終わればいつものクラスメイトに元通り。魔法の時間がシンデレラよりも短い。そういう刹那的な魅力が大好きです。

 

院戦に行ってきました。バレーは白熱で、男女ともフルセットのデュースまで持ち込むアツすぎる展開。女子は惜しくも負けてしまったけど、男子は二度のデュースの末に勝ったので、僕も久々に叫びました。嬉し泣きしている部員を見て一個上のマネさんと一緒にもらい泣きしそうになったり。

 

バレー部員だけでなくて、ティーンは本当に活気がある。プレイヤーも観戦側も汗くさくて、泥くさくて、それでいて光り輝いてた。シーブリーズのCMでも見てるんじゃないかってくらいに。特にチアの子たちはエネルギッシュだし笑顔が眩しくて可愛い。野太い「おっけぇぇぇ!!!」も健在で、何もかもが美しいんだ。

 

若さで動く、それだけで人は主人公になれる。

   男排プレイヤーたちは、ひたすらにバレーをして勝ったことにこそ至福を感じているだろう。しかし観るに徹するしかできなくなった僕にとっては、彼らが必死にバレーをしている姿、それだけでもう1本の映画を観ているような多幸に包まれる。

    僕だってティーンの頃は誰かに感動を与えるような主人公だったはずだ。

「当代唯一の男マネージャーと部員たちの奮闘の日々」 おっ、映画っぽいやんけ。

「魔窟とまで呼ばれた写真部で奇怪な人員を率いた男の話」 お蔵入り決定だな。

  

◆そんな彼らの輝きを「激アツのアツ」と言うのは、間違ってはいないけどやはり全く言葉が足りてないわけで。

   「エモい」という言葉、定義が不安定だからこそこういうときホントに便利だな。高校生のきらめきはとにかくエモい。

   とにかく、自覚はないだろうけど君たちはちゃんと青春してるよ、ってのが彼らに伝わればいいんだけど、だいたい渦中の人は気づけない輝きは光の中では見えないから。かっこいいこと言ったところでおしまい。

この一年について

 

はてなブログに移って気がつけば1年以上経った。30件以上の投稿をした。たまに見返すと「なかなかいいこと書いたな」とか「フォント設定が悪い、見づらすぎる」などがあって面白い。投稿内容の良い悪いはあっても、見返して面白いなと思えるだけで、当初の目的は大いに達成できている。

 

◆何か書こう、書き残そうと思い立った発端はあまりに苦しい出来事で、しかしそれがあまりに苦しかったからこそ、その反動もまた大きかったのかもしれない。筋トレしようとか今年こそ彼女をとか、マジメに立てた目標はことごとく三日坊主にするような人間が1年以上続けているんだから、たいしたものである。

 

Twitterのほうでこまめにやっていた映画感想のツイートもずいぶん楽しくやれている。「帰ってきたヒトラー」の回は映画自体注目度が高かったこともあって多くの人に見てもらえた。こうして書きもので承認欲求を満たせるのは副次的な産物とはいえとても嬉しい。

 

ぷるーぶ on Twitter: "映画の時間だよ。今日は「背景知識がないから」と避けていたものの結局借りてしまった「帰ってきたヒトラー」… "

 

◆極めつけの結実は、縁あって携わることができた母校の会報の記事執筆だった。仕事として書きものができた嬉しさもあったが、会報の仕事に誘ってもらえたことが何より嬉しかった。自分の書いたものをネットに公開していてよかったと痛感した。

 

◆ところでここ最近は特に書くことへの欲望が強い。それはこのところ芸術に関してTLが熱かったのがある。母校の人はえてしてクリエイティビティで、文章に限らず写真・絵・音楽など、常に何がしかの作品が流れてきた。コンスタントに作品を出す人はかっこよかったし、そういった作品が流れてくるTLは刺激が強かった。

 

◆それでついに思い立って、今年の頭から奮起して書き始めたものが、ようやく形になろうとしている。まだ下書きもいいところだし、書き終えたところでどうするのかも何も考えてない。けど、学部生も最後の年なんで、自己満足でも「やればできるんだ」ってのを形で示して大学生生活を終えたいなどが、この頃ふんわり考えていることである。

関係ないけど私は「キスして」というタイトルの曲を4曲歌える

 

夜だからと駅のホームで彼氏/彼女と熱いキスを交わす度胸があなたにはありますか? 私にはまず彼女がいません。

 

◆さておき、度胸のある人が大それたことを成していると、度胸のない私は羨ましいなあと思ってしまいます。しかしその一方で、度胸というのは無神経と紙一重なところもあると思うのです。

    例えば先に述べたような、駅のホームで熱いキスを交わすカップル。たとえ彼女ができたとしても私はチキンなので到底そんなことはできません。できないという前提を踏まえた上で、キッシング・カップルを見ると嫉妬に熱く燃えてしまうのです。つまり彼らは無神経にも私に対して幸せを当てつけてきている。そうだよ逆恨みだよ。

 

◆人前でキスとまではいかなくとも、日常の些細なモーション1つとっても「よぉやるわ」と思うようなことはあります。

    これは全く別な話ですが、私は非常に足が臭いです。自分でも嫌になるくらいに。なので、人前で靴を脱ぐというのが服を脱ぐこと以上に恥ずかしく、また抵抗があります。しかし世の中には足の臭くない人も一定数いて、彼らは平然と人前で靴を脱ぎます。驚嘆です。

    人の家に上がるときや、座卓式の居酒屋など、どうしても靴を脱がなくてはならないときならいざ知らず。彼らは、例えば長く椅子に座り続ける授業中などに、靴を脱いで足をぶらぶらさせるのです。

 

◆靴は足を束縛し、思いのほか着苦しいものです。できれば脱いでいたい。なんなら裸足で理工キャンパスを駆け巡りたい。

    授業中、隣で友人が靴を脱いだら? 自由を謳歌するように足をぶらぶらさせたら? 私も嫉妬のあまりつい脱いでしまいそうになります。しかし自分の足の臭いを知っているからぐっと抑える。自由気ままな上流貴族を眺める、足枷にとらわれた奴隷のような気持ち。ともすれば南北戦争が始まりかねない。

 

◆靴を脱ぐモーションが果たして度胸のある行為なのかどうかは個人の裁量ですが、あなたの「度胸ある行為」は、どこかで誰かの逆恨みを買って「無神経」と捉えられるのです。

    アホみたいな例のせいで何言ってんだこのバカはと思うかもしれませんが、これは意外と真理だと思っています。いちいち気にしていては生きていけません。これが俺だと言わんばかりにキスをかましてあげましょう。愛してやまない恋人相手か、酔って倒れて地面相手かは別として。

なんて綺麗な眺めなんでしょうか!

 

 

◆研究室に配属されて、ささやかながら社会というものを知ったような気がする。

 

◆中高と部活動をしていたけど、運がよかったのか体育会系にありがちなキツい上下関係は全くなかった。上も下もないゆるゆるな生活で、一度だって「せんぱーい」って呼ばれたことがないくらいだ。今はちょっと後悔してる。剣崎後輩みたいな後輩が欲しかった(リズと青い鳥を観ような)。

    知っての通りあの高校は学校をあげてそういった雰囲気で、およそ社会とはかけ離れた異空間とも言える。私自身地がそういう人間なので、あの異空間はとても心地よかった。

 

研究室はそうはいかない。学生(学部生・修士生)の間ならそこまで厳しいものはないけど、博士課程や助教、OBG、そして教授との間はそうはいかない。どうしても年齢に差が出てくるし、何やり知力と経験が段違いである。日々かしこまりながら過ごす生活は息苦しくて仕方ない。

    加えて、毎日決まった時間に登校し研究をする点では、サラリーマンとなんら変わりない生活である。残業もある。研究以外のタスクもある。研究室単位での課外活動(合宿とか)もある。これはもう社会人では?

 

日々が無味乾燥だ。人生で一番楽しかった時期や思い出はそう簡単に決められないけど、人生で一番つまらなかった時期は断定できる。今だ。 

    心に潤いが欲しい。煙草を吸って、麻雀を打って、手慰みをして、体や心を傷つけてようやく生きてる心地を体感してる。それは絶対間違ってるというのに。

 

だから最近は高度に「現実逃避」している。高校生の頃以来の漫画欲の再燃で、最近また買いだすようになった。映画も週2本のペースで観ている(リズと青い鳥を観ような)。とにかく現実を見たくない。もっと優れたフィクションに逃げたい。

    最近はまた小説を書きたいとも思ってる。多分書かない。はてブすら更新が不定期な人間が書くわけないんだけど。書く/書かないは別として、妄想することとと書きたいという欲望は絶やさないようにしようとは思ってる。

    持論として「現実逃避」は悪いことではないと考えている。むしろいいことだ。こん詰めると死ぬぞ、体か心が。そう言い聞かせて今日も逃げている。

 

人生はGO!GO!MANIAC

 

 

「人生を変える出会いがある」

    映画が好きなもんで、いろんなキャッチコピーを見るんだけど、どれもこれも大層なお言葉を並べていて見ていてむず痒い。そんなんだから恋愛物や青春物にあまり手を出せないで、ひねくれたオタクになってしまった。

 

 

■自虐はさておき、人生を変える出会いってそんなに大層なものか。確かに人間七十億人もいれば映画みたいな「出会い」があった人も何人かいるだろうけど、そのうちの一人に入るような出会いがあったか。

    私は。あるいはあなたは。「私の人生を変えた物」とはっきり認知しているものがありますか。映画になりそうなほど素晴らしい出会いでしたか。というか「人生が変わった」瞬間を覚えてますか。

    そう聞かれるとなかなか答をすぐに出せないかもしれない。対して私は、意外なことに、人生が変わった瞬間を痛いほどよく覚えている。つまり、オタクになる前と後だ。

 

 

■中二の夏。祖父母の家に帰省したときのこと。その夜は従兄弟の部屋に布団を敷いて眠った。

    遠方に住んでいた私は彼と年に二、三回しか会ってなかった。正月最後に会ったときまでは普通のバスケ少年だったのに、その夏から中身が一変していた。

    夜、そろそろ寝るかと言ったところで、従兄弟は枕元にあったCDデッキの電源を入れた。

「これから寝るんだけど」

「最近は音楽流しながら寝るんだよ」

    そういって流れ始めた音楽は想像していたどれとも違った。初めて接するジャンルだった。妙に高い声の女性が、えらい早口で何か歌っている。

「何これ」

「『けいおん!』って知らない?」

 

 

■たったこれだけだ。あの夜、従兄弟がGO!GO!MANIACを流さなければ私はオタクになってなかった。こんな些細なことで私はオタクになってしまった。 映画のコピーが喧伝するような、煌びやかな「人生を変える出会い」とはほど遠い。

    あのとき素直に寝ていれば、オタクルートを踏まない私が、本キャンでウェイウェイしている私もいたかもしれない。TwitterよりInstagramを好んだ私がいたかもしれない。想像するだけでヘドが出る。

    何を血迷ってりこきゃんでくすぶっているのか、と言われると心が痛いけど、オタクだったから知り合えた人たちとの付き合いが一番長いし、道を踏み誤ったとは全く思っていない。 今日もこうしてアニソンを聴き、明日の研究から逃避する。

 

魔法にかけられて

 

 

「目で見ているものが現実とは限らない」

    って言葉聞いたことない?私はある。絶対なにかの漫画で読んだことがある。というか異能力バトル系なら確実に誰かが言ってるでしょ。幻術使い系の人が。私のBibleにも同じような言葉があったもん。いったいいつから鏡花水月を使っていると錯覚している?

 

 

▪️少年だったあの頃はそりゃわくわくしながら読んでいた。一体何が現実で何が幻なのか? 順調にストーリーは進んでいるけど本当に大丈夫か? 日番谷、それはもしかして雛森じゃないのか?

    そして読み終えたあとに漫画を閉じて、周りを見渡してふと思うわけです。私の見ているこれらは全て現実なのだろうか。そうして部屋にあるものをペタペタと触っていくわけ。そしてそれらが紛れもなく現実であることを確かめて少しがっかりしてしまう。

 

 

▪️今思えば、幻のお世話にならない生活を送れていたってことはとても幸せに生きていたってわけで、幸い今もなお変なものが見えたり変な音が聞こえたりなんてことはない。

    魔法使いも魔術師もいたらいいなくらいには思っているけどまだお目にかかったことがない。だから「幻を見る」なんて経験がないんだけども、幻を見ずして現実を語っていいものかと思ってしまう。

 

 

 ▪️幻を「本当はそこにないのにあるように感じていまうもの」と捉えるなら、その対比として現実は「絶対的な存在」になる。哲学めいてきたな。

    最近Twitterをしているとものすごい写真がRTで回ってくる。特に夜景の写真。私こんな綺麗なところ知らないってくらい美しい輝きを放つ東京。

    最近の写真はカメラの性能もさることながら加工技術もぐんと跳ね上がって、情景に一番適した仕上がりを見せてくれる。それは人の目には到底できないワザで感心してしまう。一方でふと考える。「情景に最も適した美しい修正現実」を現実と言っていいのか。

 

 

▪️マーライオンにがっかりした。期待していたラーメンがそうでもなかった。オフ会の相手がアイコンとだいぶ違った……。美しく見せるワザが現実に夢を添えている。抱いていた過大な理想が幻となって消えていく。

    幻と知って初めて現実を強く認識できるならば、なるほど私たちは、幻術使いの世話ならずして現実を肌で感じている。巷には、特に愛してやまないついったーらんどには幻で溢れている。魔法使いや魔術師は思いのほかすぐそばにいたらしい。なんと素敵なことだろう。

    今はせめて、この目で見ているものは現実だと信じていたい。そう心に決めて目をかっぴらくと、夜空に浮かぶのは世にも奇妙なスーパーブルーブラッドムーン。宇宙レベルの幻なんて、太刀打ちできるはずもない。