ちょっと長めのツイート

お気持ちを配信しています

「おもしろい話をして!」

 

 

 

    何よりも嫌いな無茶ぶりだ。

 

 

 

    「この世には二種類の〜」の定型句で言えば、話がおもしろい人と、話し方がおもしろい人がいると考えている。話がおもしろい人ってのも語弊があって、おもしろい話を持っている人ってのが多分正しい。

 

 

    おもしろい話を持っている人はそこらじゅうにいる。生きていれば何度だって衝撃体験に出逢う(出遭う?)。それを持ち寄って各々いくらかずつ話していけば、1飲み会分くらいの尺はあるだろう。

    しかし頻繁に会っているとネタも尽きる。過去の話を掘り下げても過去の話は増えないし、こんなご時世あまり未来のことは考えたくない。

    だから、そんなときでもスキャットマンのようにベラベラと話し続けられる人が重宝される。「話し方がおもしろい人」 周りにどれくらいいるだろうか。友達の少ない21年の生涯、片手で数えられるくらいの人しか思いつかない。

 

 

    あとで思い返すとホントにくだらなくて何で笑ってたのか不思議に思うことすらある。あるいはその人が話していた爆笑必至の話も、人づてに聞くとそうでもなかったり。

    でも確かに爆笑していた。中村仁美アナが「満点大笑いです!」って言ってくれそうなくらい大笑いしていた。砂塵を砂金に見せるような特異な技術がそこにはあった。

    冒頭の無茶ぶりにも対応してくれる、飲み会をやるなら「とりあえず呼んでおく人」 彼もそんな人だった。その特異な技術をちっとも盗めやしなかったけど。

 

 

   当然おもしろい話し方なんてできないオタクだが、身の振り方は考えている。

   報告精神旺盛だから、ちょっとおもしろいことがあるとすぐにTwitterで言ってしまう。相応にふぁぼを貰えてそれで満たされるからいいんだけど、飲み会なんかになると困ってしまう。「その話Twitterで見た」 アド街じゃないんだから。

   身から出た錆とはいえ、おもしろいと思った持ちネタを放出しきってしまって「おもしろい話を持っている人」にもなれない、その結果「聞き専」に落ち着く。

 

 

   おもしろい話をする、で始まった話題がいつの間にか聞き専で閉じているのだ。180度転回している。やっぱり僕におもしろい話はできないらしい。

    そう自覚があるならお口ミッフィーで聞き専に回った方が場のためであろう。それに、愚行を犯すよりはよっぽどマシだ。友達の少ない21年の生涯で片手で数えられるくらいにはいた、つまらない話を延々と続ける人、そうなるよりは。

   

    

    

 

君に誓う

 

 

    結局泣いた。堪えようという思いはなかったから、流せるだけの涙を流しておいた。ただ、私は何に対して涙を流したのか。何が悲しかったのか。

 

 

 

 

    彼の死は本当に辛い。そこらじゅうに姿をあらわしては、強く影響を残して去っていくような人だったから、今もなお彼の面影がそこかしこに見えてしまう。「こんなとこにいるはずもないのに」、そうわかっていても探してしまう、歌にあるように。

 

    安らかに眠る彼を見て、ふっと祖父のときの光景が頭をよぎった。あのときもたくさんの華で埋め尽くした。みんな涙していた。あのときも私は、涙を流せずにいた。


    きっと私は、人が死ぬことには諦念の心でいるのだ。祖父は長い闘病の末の大往生で、むしろ誇らしくさえ思っていたから、泣けなかったのだろう。


    彼は違う。訃報を聞いたときも、棺に華を添えるときも、「なぜこんなにも早く」、そればかり考えていた。彼だっていつか死ぬことにはかわりないけど、なぜこんなにも早いのだ。運命か死神か閻魔様か、私は何を恨めばいいのだろう。

 

 

 

    初めて涙を流したのは、友人による弔辞を聞いたときだ。その言葉は、ひとつひとつに重みを感じて、じわりじわりと私を苦しめた。胸につっかかっていた思いは涙となって、ようやく少しだけ、気が楽になった。

 

    しかし何より私の胸を痛めつけたのは、「行かないで!」という慟哭だった。この世界に留まってほしいのは誰もが思うところだが、彼は彼の行くべき場所に行かなくてはならない。それは私の死生観であり、私のエゴだけど、そう割り切らないと、いつまでもこの世に彼を留めてしまう。

 

 

 

    言葉は最高の発明だが、それはあまりにも力を持ちすぎた。言霊ともいうほどだ。空気が震えるだけのそれが、私たちに及ぼす影響は計り知れない。友人の弔辞然り、行かないでの言葉然り。


    それでいて私たちは言葉に対する防衛手段を持ちあわせていない。見たくないならまぶたを閉じて、臭いときには息を止めれど、聴きたくないものに対して助けを借りずにシャットアウトすることができない。

 

    出棺中、誰もが彼に最期の挨拶を述べて、あるいは悲しみの涙をこぼし、嗚咽していた。私が彼を喪って覚えた悲しみがあるように、あの場にいた1人1人が特別な悲しみを抱えている。その言霊に私の耳はレイプされ、悲しみは共鳴して、増幅した。その増幅にキャパシティが耐えきれなくて泣いた。私1人だけの悲しみなら、ああも泣かなかっただろう。

 

 

 

    出棺してしまえば、彼は彼から故人になる。そうなると私の心には諦念しか残らない。「人は死ぬ」。もうこの世に彼はいない。向こうで楽しく過ごしている(と信じている)彼を、思うことしかできない。

    だから、もう涙は流さない。流せないのではない。彼との思い出は忘れないけど、彼をここに留めてはいけない。
   これから私は、彼の力を借りないで生きていく。どうか私のことを見ておいてほしい。暇が嫌いだった君の暇つぶしになるような、楽しい人生であってみせよう。

 

 

 

※2016/08/22   「言霊のレイプ」改題

八月の話。

 

 

    21歳になった。一日一日は楽しいような楽しくないような、そんな日もあればこんな日もあるというような一年だった。回りくどく言ったがようはこれまでの20年となんら変わらない日々だったわけで、唯一違うのは、この一年だけはずっと彼を考え続けて生きてきたことだ。

 

 

 

    去年の誕生日の二日前、僕はティーンを失うことにどうにも怯えながら二十歳になるのを待っていたらしい。

 

大人になる自分に宛てて - ちょっと長めのツイート

 

    しかし何ということなくそのときを迎え、ダイアログインザダークを楽しみ後輩たちから素敵なプレゼントまでもらって、僕は手のひら大回転で誕生日を楽しんでいた。

 

ぷるーぶ on Twitter: "おしゃけ〜〜〜〜〜〜♡♡♡♡♡ というツイートは憧れにとどめます いい後輩を持ったもので素敵なプレゼントをいただきました あんまり吸わないように努力します… "

 

    深夜テンションでポエ散らかした(ポエムを吐き散らした)だけで、俺のことだしなんだかんだ今年もゆるゆる生きていくんだろうなとたかをくくっていた。そのわすが数日後だった。

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

    

    この一年間、誇張でなく本当に、毎晩寝る前になると彼のことを考えた。かといって深追いするわけではなく、ただふっと、どこを探しても彼はいないんだ、そう思うだけ。辛くて眠れないとか、取るものも手につかなくなるとかそんなことは一切なかったけど、常に頭の隅にその事実が居座り続けて離れなかった。

     

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    六月のある日。スマホをいじっていたらボイスメモに覚えのないデータが残っていた。再生してみるとシェイキーズメンバーが話をしていて、約一年ぶりに彼の声を聴いた。さすがシェイキーズと言わんばかりに、本当に本当に本当にくだらない話をしていた。そのときの情景をようやく思い出し、懐かしさ以上の何かで苦しくなって、手をつけていた勉強はその日何もできなかった。どうしてこんな会話を録音したのか当時の俺の気が知れないが、思ったより近くに彼はいた。

 

 

 

    

    だんだんと時がたって、近頃は友達との会話の端々に彼の名前が出るようになった。友人たちにどのような心境の変化があったのか、それは人それぞれだと思うが、僕の中にあった「タブー視するような感覚」は徐々に氷解していった。たとえ少しずつでも、彼の名前がぽつぽつと浮かびあがってくることが本当に嬉しかった。本当に嬉しかった。彼の名前を出して話したいことがあまりにも多かったから。

 

 

    こうやって日々徒然を書き残そうと思ったのも、その人となり姿なりをたくさんの人の記憶に残した彼に憧れたからだ。僕のくだらない書き置きが誰かの記憶に残るかはわからないけど、とりあえずはこれからもちまちま書いていこうと思う。今のところの記事一位が「制服脱がす」なのもなかなか悲しいけれど。

 

 JKのシャツを脱がせたかった - ちょっと長めのツイート

 

 

 

    

    本当にいろんなことを思いながら、あっというまに一年が経った。八月が来れば僕は歳をとり、彼もまた誕生日を迎える。太陽はさんさんでアホみたいに暑いし、汗はベタついてバカみたいに鬱陶しい。何をするにもやる気を削がれる、食はいっそう細くなる。それでも夏が好きだ。八月になっただけで楽しくなれる。夏生まれはみんなそんなもんだと勝手に思ってる。

    また夏が来たと、彼に伝えないといけない。彼のことだからきっと土産話を欲しがるだろう。大黒摩季を知ってるか、夏は来たけど夏が来ねえんだよ。次までには浮いた話を用意しないと、何より退屈を嫌った彼に会わせる顔がない。そんなことを思う8月6日である。

 

 

 

    

画面の向こう

 

 

    画面の向こう、という表現が好きだ。

 

 

    身の回りには画面で溢れている。テレビ、パソコン、スマートフォン。1日のほとんどをTwitterで溶かしている僕は、現実と画面どちらをより長く見つめているのかと聞かれると即座に返答できないところである。別に僕に限ったことじゃないと思うんだけど。

 

 

    カメラ好きな人がよく使っているハッシュタグ「#ファインダー越しの私の世界」というのがある。覗くとそこには素敵な世界が広がっていて、たまに癒されたいときによくタグ巡りをしたりする。

    ファインダーを覗いて見えるのはその人の眼に映るまでの世界だ。かつては僕も挑戦していたが、いつしか写真を撮らなくなってしまった。ファインダーを覗くよりも、画面を見つめている方が性に合った。画面を覗けば、現実には見えないものだって何でも見えてくるから。

 

 

    画面の向こうでは人生が広がっている。僕の知らない人生が、受信手段がなければ知り得なかったであろう誰かの今日の一日が手に取るようにわかる。こんなに面白いことはない。

    しかし今は送信過多の時代。興味のないことや知りたくないことまで知り得てしまう。有名人が死んだ。哀悼のツイートが次々と浮かび、連日連夜それなりの尺を取って伝えられているが、僕にしてみれば「とてもよく知っている赤の他人」だ。有名人である以上訃報がニュースになるのは仕方ないにせよ、連日連夜悲しみを押し付けられるとげんなりする。

    さておき、そうしていろんな人生を目にして自分の人生に変化を起こせるかどうかである。画面の向こうで繰り広げられるそれが自分の人生への刺激となればTwitterをやる意味もあろうに、今のところ何にも有効活用できていない。

 

 

    いつかの僕のクラスメイトが画面の向こうで楽しそうに音を奏でている。時を同じくして、そんな煌びやかを僕はベッドに寝転がって観ている。ひげをそらなくちゃとか、明日の準備しなくちゃとか、思うところすべて投げ捨てた怠慢がベッドに寝転がってその音色に聞き入っている。

    僕が遅れてるんじゃなくてみんなが先んじてるだけなんだと言い聞かせるのもそろそろ怖い。確かに頭の中では「Do it!!」おじさんが僕を励ましてくれているんだけど、おじさんはDo   it!!!しか言えないから何をすればいいのかまで教えてくれない。とり急ぎこうやってまたはてなを開いたけど、これがおじさんの言うitだっただろうか。

     何をするにも何を書くにも考えのまとまらないLONLEY NIGHTS。別に上手いこと言えてないし、とりあえず髭を剃ろうと思う。

     

    

    

「でも幸せならOKです」と言えるようになりたい

 

 

    アイドルの結婚報告で荒れに荒れたついったーは久々に地獄を見ているようで楽しかった。「裏切られた」「許さない」。憎悪であふれたいんたーねっとだったが、はたして僕はあまり深くアイドルを追ったことがないので、そうした言葉を呟いているファンの気持ちがイマイチわからなかったりする。

 

 

 

    かのアイドルグループが「恋愛禁止」を掲げているのはさしもの僕でも知っている。そして、そうしたルールのもとにいながらこれまで何人かの先輩たちがスキャンダルでセンテンススプリングな目に遭ったということもまぁ知ってはいる。つまるところアイドルとて人だ。でもそうした感情を持っていてくれた方が人らしさ愛らしさがあって可愛いと思う。恋なんて、とほざいてオタクのようにひねくれたアイドルの方が見たくない。

 

     もちろん、仮にもルールとして恋愛禁止を掲げているなかで、よりにもよって総選挙の壇上で結婚を報告するのは、アイドルとして以前に人として感性を疑ってしまう。ルールを守れない、場をわきまえないは「この人間とは仲良くできない理由ランキング」があれば必ず上位に食い込んでくるだろう。

    だからそうした点を指して彼女を批判するのは理解できるんだが、「裏切られた」とか「許さない」とか言ってる人たちを見ると、彼らがどういった気持ちで彼女を応援していたのか疑問に思ってしまう。

 

    先述の通り僕は本気で追っかけするほど入れ込んだアイドルがいない。アイドルというか芸能人全般でいない。ので、ファンとアイドルの関係性というのがどうにも掴めない。きっとそこに「応援する、以上の気持ち」があったことは確かなんだけど、それがどういう感情なのかよくわからない。

    しかしどうであれ、心根から彼女が純潔だと信じていたから出た言葉なのかと思うと、一歩引いたとこにいる自分としては不気味に思うところすらある。まして、積んだ金を引き合いに出して怒り狂ってる人を見るとさすがに哀れ惨めなと思ってしまう。そんなに純潔な美少女を望むならそれこそこちらの世界に来ればいいのに。こっちはいいぞ、恋愛もうんこもしない本物のアイドルだ。

 

 

    アホなことはさておき、偶像を追うのはリターンが大きいけれどリスクも大きいんだなというのを再確認させられた。

    そこで親指を下げて「裏切られた」と罵るか、親指を上げて「でも幸せならOKです」と祝福するか。あの男性のようになれたらいいなと思う夜であった。

 

 

     でもやっぱこんなことになるならきちんとリアルで恋愛したいし、僕も結婚報告して世間を騒がせたい所存である。「自虐ネタ男だって信じてたのに裏切られた!」と言わしめたら大勝利だ。恋がしてえ。

 

    

    

 

 

    

Today is the nightmare

 

 

    このところ夢にうなされている。それも、悪夢を見るよりもひどい苦しみだ。

 

 

    仲間由紀恵に壁ドンされた夢を見た。どうにも胸元の緩い服だったので、何とは言わない何かが見えたわけでそれはもう素敵な夢であった。かといって起きてみるとナニがどうなってたとか、そういうことはない。

    あるいは山手線のくせに快速の大崎行きに乗車する夢を見た。ぼんやりと覚えているのは窓の外の景色が明らかに見覚えのない景色で、次駅表示には「美田」という知らない名前が書かれていた。調べてみたが鉄道で「美田」という駅はないらしい。不思議な話だ。

 

 

    とはいえ夢などとは不可思議なものなので、仲間由紀恵に壁ドンされようが山手線が快速で知らない駅に向かっていようが、なんだ夢かで終わる話である。

    しかしだ。不可思議珍妙なだけの夢なら見過ごせたものを、最近はただ首を締めてくるだけの夢ばかり見る。どうも僕は僕に彼女を作らせようと必死なのである。

 

 

    最初にその夢を見たのは4月29日のことだ。僕は知らない女性に告白された。なぜか僕は働いていて、その女性は同僚のようだった。僕は少しだけ悩んだのちにOKした。そこで目が覚めた。見慣れた白天井が視界に入ったときの絶望といったら、小峠が100人いても叫びたりない。「なんて日だ!」

 

    しかし能天気な阿呆は幸せなことで、昨朝ついに「彼女がいる」夢を見た。もういるのだ。過程もくそもないのだ。ただ残念なことに、何も思いだせない。その彼女と海にいるところまでは覚えているんだが、何をしていたか、彼女の顔さえも全く思い出せない。こともあろうに「彼女がいる」「海で遊んでる」という事実だけ(事実ではないけど)心に引っかからせて映像を記憶に残さないまま夢は終わりやがった。この絶望がわかるだろうか?ここまでくると事実捏造の妄想癖・虚言癖に近しい。

 

 

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    おかげさまでネタにはなったし多くの人から同情憐憫の♡をいただけたのでよしとするが、さすがに心が張り裂けそうだ。

    僕はどうしても僕に彼女を作らせたいらしい。フロイト先生の出番もないほど分析が簡単な深層心理だ。なんだか高校生のころより焦っているような気もするのは、近頃まわりで幸せそうな人が多いからだろうか。大黒摩季の声がする。「きっと夏は来る」

 

 

    目を覚ましたときの絶望は悪夢を見たときの比ではない。二次元のお嫁さんだって電源をいれればそこにいるのに、夢の中の彼女はもう二度と会えない。僕は目を覚ましてしまった。二度と会えない君を探して、悪夢のような今日を生きる。

 

京都顛末 市街地編

 

 

    市バス。四条高倉で下車。行き先は錦市場

 

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    どうでもいいけど四条高倉って四条貴音みたいだよね。

    わらび餅を頬張りながら市場を闊歩。チョコレートコロッケをTwitterのネタのために買うか買わないかで5分くらい悩んだ。2月だというのに修学旅行生もいて、彼らは普通のコロッケを買っていた。その調子で真っ当に生きてほしい。

    結局わらび餅だけでお腹もふくれ、気づけば市場の端に到達。これ以上の行き先を何も予定していなかった。そこで何も考えずに市バスに乗車。そのバスの行き先から目的地を決めた。

  

    鴨川

 

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    でかい川はいいね。雄大で荘厳で最高だ。高田馬場の近くの神田川と比べるとね、羨ましい限りです。鴨川等間隔の法則は見られなかったけど、飛び石を楽しそうに越えていく高校生カップルがいて身も心もやられました。俺は一人で何をしているんだ。

   

    せっかくなんで京大にも行ってきました。

 

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    ここが日本の頭脳かぁとか言いながら天才たちの吐いた二酸化炭素を吸ってきました。少し頭がよくなった気がします。

 

    最後に祇園の町を。

 

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    舞妓はぁぁぁぁんもおった。ゆうても町を歩く舞妓はんも着物着てる人も大半は観光客だって偉い人が言ってた。着物を着たい観光客と、着物を着た京の女性を見たい観光客と、その両者から金を取りたい商人。三方良し。win-win-winの関係。

   

 

   寺院巡りだけで一日済ませないで良かったなぁとしみじみ思う。バスで行けるほど小さな範囲に伝統や自然、頭脳が凝縮されている素敵な町でした。

 

 

※2017年2月14日のnoteを一部修正