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10年バズーカ

 

 

汐留で試写会を終えた私は腹が減っていた。

 

 

高田馬場を根城にするクソ大学生なので新橋にはとんと用がない。たいていの店は馬場にあるし、そもそも新橋は定期に通っていない。それもあって新橋に立ち入らない私はいまだに小さいころからのイメージを保持しつづけている。つまり、「サラリーマンの町」というイメージだ。あ、あと「シン→ バッシ↑」か。

 

 

そんなだから駅周りも東京や霞ヶ関のようにビルしかないのだと思っていた。しかし人は成長するもので、酔いどれのおじさんにあちこち連れ回されたおかげでイメージは刷新されていき、東京や霞ヶ関にも飯の美味い店が多いことを知った。そして例に漏れず、新橋も飯屋で溢れていた。

 

 

神も憐れむ優柔不断なので、選択肢の多さは入店決定までにかかる時間に比例するアホな男だ。2-30分考えぬいて結果として入ったのはパンチョというナポリタンの店。昔行きそこねていたのでちょうどよかった。

まるで当然のように店内にはスーツの男性しかいない。腹回りが私よりひと回りもふた回りも膨れた人ばかりだ。出てきたナポリタンは私が家でレトルトで作るヤツの何倍も油からめからめで、たまらなく美味い。美味しいものは糖と脂肪で出来てるのか、いやもう糖と脂肪が美味しいだけなんじゃないか?こんなもんをこんな時間(22:00過ぎである)に食べる生活してたらそりゃあんな風になるやななどと思いながら麺をフォークに巻き付ける。あと店員がめっちゃ可愛かったけどそれは別の話。

 

 

結局飯屋の多さには驚かされたけどそれは自分のイメージが悪いだけで、サラリーマンが多いなら自然と飯屋が増えるのは道理。そして飯屋と同じくらいバーやキャバも多い。キャッチもたくさんいた。

なんだか10年後の高田馬場って感じだ。もちろん10年後も高田馬場は若さとゲロで溢れているんだろうけど、高田馬場にいる若さは10年歳を経て、新橋の街形成の一端になるんだろう。そう思うとまだ火曜だってのに足元がおぼつかないサラリーマンを見たのも頷ける。

 

 

新橋はそれでも宵締めの活気で溢れていたが、地元の駅で見かけたサラリーマンたちは皆生気を削がれたかのようだった。夜を安酒で流し、長い時間電車に揺られて帰宅して、少し寝ることでなけなしの体力チャージをする。帰宅が遅くなったときの私や友達と何も変わらない。変わろう!と思い立たないと、結局10年経ってもそんなに生き方は変えられないんだろうなとふと思う。思い立つ日はまだ遠そうだが。

 

 

 

 

 

私はラ・ラ・ランドのように踊れない

 

 

「できればずっと音楽を聴いていたい」

その人はそう言っていた。

 

 

話の前後をろくに覚えてないからどういう経緯でこの発言が出たのか定かでないが、この一文だけが今も頭に残っている。

ずっと音楽を聴いていたい。おはようからおやすみまで、場面場面に合わせた音楽をBGMのように絶え間なく流しながら一分一秒を生きたい。確かそんなことを言ってたような気がする(たぶん拡大解釈している)。

思えばいつもイヤホンをかけているような人だ。人と会話するときなどは当然外していたが、1人のときは必ず何かしら聴いていた。あの言葉もあながち嘘ではないというか、結構本気で言っていたんだと思う。

 

 

ラ・ラ・ランドが流行し、当然のように私も観にいった。内容といえばミアとセバスチャンという1組の男女の恋愛模様を描いただけだが、ときおり入ってくるミュージカルパートが色音ともに鮮やかで素敵だった。ミュージカル映画は高校生のときに観たレ・ミゼラブル以来だったが、ラ・ラ・ランドは全編ミュージカルパートではなく、台詞パートも偏在している。そういった点ではまさしく日常に溶け込む音楽、冒頭の言葉のような「理想の日常」であった。冒頭5分、渋滞に苛立つ人たちが突如流れだす「Another Day of Sun」とともに歌い踊りだすシーンから心を掴まれたのは私だけではないと思う。

 

 

そんな「理想の日常」が妄想にすぎないこともまた重々理解している。それを強く思い知らされることとなったのが、あろうことかラ・ラ・ランドの直後に観たダンサー・イン・ザ・ダークだ。ミュージカルに憧れる女主人公セルマ、そんな彼女を襲う過酷な試練の連続。現実はかくも辛く厳しいのかと目を覆いたくなる。

 

 

ラ・ラ・ランドにおいて、台詞パートとミュージカルパートは地続きで、各パートが交互にフェードインしフェードアウトする。だからこそ普段ミュージカルを観ない私でも心地よく観ることができた。全てが現実のような、歌い踊ることも日常の一部になっている街なのかなと錯覚してしまうほどに。

一方ダンサー・イン・ザ・ダークにおいて、ミュージカルパートは主人公セルマの妄想として描かれており、そこには現実とのはっきりとした境界線がある。ふと目を覚ますと踊り子たちはいない、音楽はかかっていない。再び現実に呼び戻されたときの絶望は、夢から目覚めたときのそれに似ている。

 

 

例えば今この文を通学途中の山手線に揺られながら書いているわけだが、後ろにどんな音楽を流せばいいだろう。いきものがかりの『帰りたくなったよ』か、あるいはあったかハイムが待っているあのCMソングあたりだろうか。

欲望に忠実にBGMを選曲することもいいとは思うがそれで家に帰れるのはラ・ラ・ランドだけで、結局私は高田馬場で降りなくてはならない。私を待っているのはあったかハイムではなく灰色をした理工キャンパスだ。

 「できればずっと音楽を聴いていたい」全くその通りだ。『恋』を聞きながら恋人と踊りたいし、『スパークル』をバックに恋人と流星を眺めたい(死にたくはないが)。しかし現実、レポートは減らないし恋人は横にいない。

 

 

現実と妄想には必ず線引きがある。音楽は妄想を肥大化こそすれ、その境界線をぼかしたり消し去ったりはできない。

私はラ・ラ・ランドのようには踊れない。その音にセルマのように夢を見るだけだ。音楽を聴きながら辛い現実を受け入れたら、レポートに追われ恋人のいない日々が妄想に重なってきたなら、現実も妄想さえもバッドエンドに突っ走ってしまいそうで、だから私は現実は現実としてきちんと受け入れることにしている。

 

 

とはいえ妄想が嫌いなわけではない。ことそこに音楽があればなおのこと楽しい。

ホームが2階にある高田馬場駅はどこの出口に向かうにしてもまず階段を降りなくてはならない。私は頭の中にMUSIC STATIONのあの曲を流しながら、デビュー5年目の中堅ミュージシャンのように手馴れた感じで階段を降りていく。